豊かさに感謝できない
子供のころ、ご飯を残すと、母親にきつく叱られた。
「世界には食べたくても食べられない人たちもいるのに、
もったいないことをするな!」って。
その頃は、なんとなく納得して、
無理にでも残さず食べていたんだけど、
これ、冷静に考えると、どうもオカシイ。
僕が、食べたくないものを無理に食べたって、
それは、海外で飢えている難民の胃袋に入るわけじゃない。
自分の腹に余分な脂肪がつくだけだ。
「もったいない」ことの解決には全くならない。
食べ切れないものが出された時点でアウトなのだ。
高校生ぐらいの時、ふと、そのことに気づいて、
母親に言ってみたんだけど、ぜんぜん理解してもらえなかった。
終戦直後の、食べ物のない時代に育った母親にとって、
残さずに食べるべきだという考えは、
当然過ぎて、疑問をはさむ余地のないものなのだ。
時代が変わり、生活が豊かになっても、
その感覚は変わらない。
子供の頃に植え付けられた、そういう感覚は、
なかなか抜けないものらしい。
「世界には食べたくても食べられない人たちもいるのに」
という意識は、僕の心の中に、今もしつこく残っている。
自分は恵まれた環境で育ってきた。
そのことを感謝しないといけない。
それに甘えていてはいけないっていうような意識。
何か後ろめたい、罪悪感のような意識がある。
でも、豊かな環境にいながら、
そのことを感謝するっていうのは難しい。
そういうのは、なくして初めて、
その価値が分かるものだから。
戦後の食べ物のない時代に育った人たちも、
毎日、腹いっぱい酸素が吸えることを
感謝したりはしなかっただろう。
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20才で家を出た後、
僕は初めて、貧しさを体験した。
貧しさっていったって、
もちろん難民の比じゃないわけだけど、
日本人にしては、かなり貧しい生活だった。
四畳半のアパートには暖房もなかったし、
電話もテレビもなかった。
バイトもせず、貯金もほとんどなかったから、
出来るだけ金を使わないように、
切り詰めて切り詰めて生活していた。
そして、そんな生活が、
自分でも意外なくらい楽しかった。
外食なんて出来なかったから、
鍋やフライパンを買ってきて、料理のマネゴトを始めた。
布団とテーブルを組み合わせてコタツもどきを作ったり、
ホウキとチリトリで掃除をしたり。
コインランドリー代をケチってこまめに手洗いもした。
時間はあり余るくらいあったから、
面倒くさい作業も、いい暇つぶしになった。
キャンプ生活みたいな感じで、不便さを楽しんでいたのだ。
バイトを始めたら、今度は、ストーブとか、炊飯器とか、
トースターとか、ラジカセとか、そんなものを、
ちょっとずつ買い揃えていくのが楽しくなった。
殺風景だった部屋に、だんだん生活感が出てきて、
それが妙に嬉しかった。
でも、ある程度の生活が出来るようになると、
そうした楽しさはなくなっていく。
僕は、衣食住にこだわりのない人間だし、車にも興味がない。
金を稼いでも使い道がないのだ。
貯金額が増えるのに比例して、
だんだん勤労意欲がなくなっていく。
仕事に時間をとられるのが、うっとうしくなってくる。
働いて稼いで贅沢するより、
古本でも読みながら、のんびり暮らしていたい。
そんなことを思いながら、ダラダラ過ごしているうちに、
なんとなく10年たってしまった。
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今、この不景気の世の中で30才を越え、
たいしてやる気もないのに、それなりに仕事があって
食っていけている。
それは、本当にありがたいことなんだろうと思う。
そう思わないといけないんだろうと思う。
仕事がなくて困っている人もたくさんいるらしいのに。
なんか、申し訳ない気もする。
ただ、仕事がなくて困っているって言っても、
本当に食うに困っている人は、そんなにいないはずだ。
収入が全くなくても、なんとなく生きていけたりするのが、
今の日本だと思う。
その証拠に、うちの近所の公園では、
無職でホームレスのおっちゃんが、
毎日、飼い犬にエサをあげている。
それが、現実なのだ。
「食うために働く」という言葉は、もう嘘になった。
本当は、さほど働かなくても、
食っていくくらいのことは出来る。
そんな時代が、いつまで続くのか知らないけど。
とにかく、食うためだけなら、そんなに働かなくてもいいのだ。
だとしたら、僕は、何のために働いているんだろう?


Comments
私、これだけは子供に言ったことないんです。
「食べたくても食べられない人もいるのだから~~」
自分が子供時代に、納得がゆかなかったからです。
でも、お残しは基本的には許しません。体調その他、
常識で判断していますが。
理由は、食べ物がこの皿にのっかるまでに、何十人以上の人の苦労があるかということ(お金も当然そこに絡みますね、お父さんが懸命に働いてくださって、
お米が買えたのよ、と)と、もうちょっと抽象的に、
ものを粗末にすると、「バチがあたって」いつか、
本当におなかすいてすいてつらいときに、おなかいっぱい好きなものを食べられなくなってしまうかもしれませんよ、というもの。
バチが当たる、ってのはなぜかよく効くのですよね。
ヘンな宗教ではなくて、目に見えない恩恵を畏れなさい、と親に育てられ、自分もそうして育てているからでしょうか。
そうですね。
「飢え死にしない程度に」なら、確かに食べてゆけてしまいますね。冬は凍死してしまう方もいますが。
ある程度、好きなものを食べ、面白いものを見聞きしたり、大好きな人と過ごしたり、笑顔で過ごせる生活のために、人は働くのかもしれません。
未来が見えないから、自分を安心させるために。
戦後すぐは、未来が見えましたものね。
明日には空っぽになる米びつっていう未来が。
今、こんだけ働いてるんだもんな、そうそう悪いことはないさ。
そう自分に言い聞かせて、満員電車に乗り込むひとたちが、今の日本の経済を支えてくれているのですね。
つきつめるところ、誰も働かなくなったら、生活保護のお金も国は出せなくなる。
さきほどの障害者の件もそうですけど、ホームレスにしても、「明日は我が身やもしれん」とでも思わないと高すぎる税金に暴れたくなります・・・。
世の中に、完璧な公平はないということですね。
逆に、あえていえば、100%平等で公平で差別のない社会になったら、弱者への思いやりも失われ、病的な社会になる気がします。
弱者ってつい使っちゃう自分がいる、でもそれが健全な気がする。
便利な建物やエレベーターがガンガン増えることにより、はいよ、とスっと手を差し出す人が減る。
ああ、なんかジレンマ!!
Posted by: ルー | January 31, 2005 at 09:27 AM