目次

不幸な人がうらやましい 
病気になりたい
心身症になりたい
ハンデがあると気楽
リハビリ中毒
介護されたい
障害者なのに頭がいい
奇形が怖い
障害者は面倒くさい
障害者を閉じ込めたい
障害者は働かない
キチガイ扱いされたくない
不幸自慢をしてみたい
精神病はずるい
ノイローゼと呼ばれたい
社会のせいにしてみたい
豊かさに感謝できない
怠けるのも疲れる


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怠けるのも疲れる

仕事もせずに、毎日、家でゴロゴロしてるっていうのは、
楽そうに見えて、意外と気苦労が多い。

みんな働いているのに、自分だけ働いていないっていう、
後ろめたさや、恥ずかしさがあって、
気持ちが休まらないのだ。

ちょうど、試験の前日に、勉強しないでテレビばっかり見てるような気分。
30過ぎた大人の男が、いつまでもヒマにしてるのは、恥ずかしい。


いつも「忙しい忙しい」と口癖のように言う人がいる。
辛そうに話す、その顔が、どこか誇らしげに見えて、憎らしい。

僕も、たまに仕事が増えて忙しくなると、すぐみんなに知らせたくなる。
「最近、ちょっと忙しくって…実は、昨日も徹夜でね…」
なんて、眠そうな目をこすりながら、愚痴ってみたくなる。


仕事をさぼれば、当然、経済的な不安も出てくる。
年金も払ってないけど、将来、大丈夫かな?って。

でも、もっと深刻なのは、自分の存在価値に対する不安だ。
僕は、なんのために生きてるんだろう? 
誰かの役にたってるんだろうか?

誰の役にも立たない人間が、ダラダラ生きてて、何になるんだろう?
そもそも、人間は、何のために生きてるんだろう?
なんて考えて、夜も眠れなくなり、つい、昼寝をしてしまう。

自分に自信がなくなると、人付き合いが悪くなる。
「今、何してるの?」と尋ねられるのが怖いから、
昔の友達を遠ざける。
バカにされるのが嫌だから、新しい友達も作れない。
一人でウジウジしていると、どんどん暗くなっていく。


働くのも疲れるけど、怠けるのも疲れる。
どうせ疲れるなら、金が稼げる分、働いた方がマシかなと思う。

  -------○-------

「ダメ連」っていうグループがある。
いい年をして、定職につかず、平日の昼間からブラブラしているような、
ダメな人たちが集まって、認め合って、世間体を気にせず、
自由に生きていこうとしている。

そういう生き方も、アリだと思う。
仲間入りはしたくないけど。


最近は、働こうとしない若者が、
“ニート”なんて呼ばれて、注目されている。
ニュースを見ていると、解決すべき社会問題として語られているけど、
そんなもの、別に解決しなくてもいいと思う。

働きたくても仕事がなくて困っている人が多いのに、
働きたくない奴をわざわざ働かせる必要はない。

ニートが働かない分は、リストラされた中年親父が働いてくれる。
子供を預けて働きたい、お母さんたちが働いてくれる。
定年後も小遣い稼ぎをしたい、高齢者たちが働いてくれる。

そりゃあ、一円でも多く税金を集めたい行政にとってみれば、
働かない若者の存在って脅威だろうし、
「問題だ!問題だ!」って、騒ぎ立てるのは分かるけど、
何も、みんなして、それに同調することはない。


働きたくない人は、働かないで遊んでいればいい。
食う金に困ったら、コンビニやファミレスの裏で残飯をあさればいい。
それが嫌なら、働けばいいし、
どうしても生きていけなかったら、死んだらいい。
死ねなかったら、生きればいい。
勝手にすればいい。

そんな、ダメな人間が、全く生きていけない社会より、
そんな人でも、それなりに楽しく生きていける社会の方が、
気楽で生きやすいと思う。


大阪のスラム街ともいえる“鎌が崎”に初めて行ったのは、
高校生の時だった。
道で寝転がっている日雇い労働者たちの姿を見て、
なぜか、すごく気持ちが落ち着いたのを覚えている。

その時、自分が歩いていた「いい大学を出て、いい会社に就職する」コースから、
いつか、ドロップアウトして、行き場がなくなってしまった時には、
ここに来ればいいんだと思った。
この街なら、それでも暮らしていける。
受け入れてもらえると思うと、なんだかホッとした。

世の中、出来る奴ばっかりじゃ、しんどい。
ダメな奴も、それなりに居てくれた方が助かる。

老人ホームで暮らすボケ老人は、自分と同じレベルのボケ老人と、
友達になりやすいそうだ。
だから、ボケの進行の早い人は、もっとボケた人を探して、
どんどん友達を代えていくらしい。
そういう点で考えると、ボケ老人にとっては、老人ホームって、
自分の家より、安心できる場所なのかも知れない。
痴呆症も、みんなでボケれば怖くない。

ホームの職員だって、優秀な人ばかり集めないほうがいい。
ドジばっかりして、上司には叱られ、ボケ老人たちにもバカにされる、
そんな職員も、1人や2人いたほうがいい。
その方が、みんな気楽に暮らしていける。

  -------○-------

一生懸命に働きたい人は、働けばいいし、
いっぱい働いて、いっぱい稼いで、いっぱい税金を払えばいい。

でも、競争社会の中で、人一倍がんばるってことは、
それだけ周りの人を追い詰めることにもなる。
税金をたくさん払ったからって、みんなのためになっているとは言い切れない。

一生懸命に働く動機って、金が欲しいとか、地位や名誉が欲しいとか、
充実感が欲しいとか、要は、私利私欲のはずなのに、それが、まるで
美徳のように言われるのは、どうかと思う。
給食のおかずを必死に取り合う食いしん坊と、何が違うんだろうと思う。

仕事で成功してるから、いっぱい働いているからって、
偉そうにする人を見ると、腹が立つ。

そういう人って、仕事が楽しそうだったりもするから、
余計に腹が立つ。くやしい。うらやましい。


僕も、いっぱい働いて、いっぱい稼げるようになりたい。
世間に認められ、胸を張って生きられるだけの、仕事と金が欲しい。

ダメ人間には、なりたくない。

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豊かさに感謝できない

 子供のころ、ご飯を残すと、母親にきつく叱られた。

 「世界には食べたくても食べられない人たちもいるのに、
  もったいないことをするな!」って。

 その頃は、なんとなく納得して、
 無理にでも残さず食べていたんだけど、
 これ、冷静に考えると、どうもオカシイ。

 僕が、食べたくないものを無理に食べたって、
 それは、海外で飢えている難民の胃袋に入るわけじゃない。

 自分の腹に余分な脂肪がつくだけだ。

 「もったいない」ことの解決には全くならない。

 食べ切れないものが出された時点でアウトなのだ。

 高校生ぐらいの時、ふと、そのことに気づいて、
 母親に言ってみたんだけど、ぜんぜん理解してもらえなかった。

 終戦直後の、食べ物のない時代に育った母親にとって、
 残さずに食べるべきだという考えは、
 当然過ぎて、疑問をはさむ余地のないものなのだ。

 時代が変わり、生活が豊かになっても、
 その感覚は変わらない。

 子供の頃に植え付けられた、そういう感覚は、
 なかなか抜けないものらしい。

 「世界には食べたくても食べられない人たちもいるのに」
 という意識は、僕の心の中に、今もしつこく残っている。

 自分は恵まれた環境で育ってきた。
 そのことを感謝しないといけない。
 それに甘えていてはいけないっていうような意識。

 何か後ろめたい、罪悪感のような意識がある。

 でも、豊かな環境にいながら、
 そのことを感謝するっていうのは難しい。

 そういうのは、なくして初めて、
 その価値が分かるものだから。

 戦後の食べ物のない時代に育った人たちも、
 毎日、腹いっぱい酸素が吸えることを
 感謝したりはしなかっただろう。

  -------○-------

 20才で家を出た後、
 僕は初めて、貧しさを体験した。

 貧しさっていったって、
 もちろん難民の比じゃないわけだけど、
 日本人にしては、かなり貧しい生活だった。

 四畳半のアパートには暖房もなかったし、
 電話もテレビもなかった。

 バイトもせず、貯金もほとんどなかったから、
 出来るだけ金を使わないように、
 切り詰めて切り詰めて生活していた。

 そして、そんな生活が、
 自分でも意外なくらい楽しかった。

 外食なんて出来なかったから、
 鍋やフライパンを買ってきて、料理のマネゴトを始めた。

 布団とテーブルを組み合わせてコタツもどきを作ったり、
 ホウキとチリトリで掃除をしたり。

 コインランドリー代をケチってこまめに手洗いもした。

 時間はあり余るくらいあったから、
 面倒くさい作業も、いい暇つぶしになった。

 キャンプ生活みたいな感じで、不便さを楽しんでいたのだ。

 バイトを始めたら、今度は、ストーブとか、炊飯器とか、
 トースターとか、ラジカセとか、そんなものを、
 ちょっとずつ買い揃えていくのが楽しくなった。

 殺風景だった部屋に、だんだん生活感が出てきて、
 それが妙に嬉しかった。

 でも、ある程度の生活が出来るようになると、
 そうした楽しさはなくなっていく。

 僕は、衣食住にこだわりのない人間だし、車にも興味がない。

 金を稼いでも使い道がないのだ。

 貯金額が増えるのに比例して、
 だんだん勤労意欲がなくなっていく。

 仕事に時間をとられるのが、うっとうしくなってくる。

 働いて稼いで贅沢するより、
 古本でも読みながら、のんびり暮らしていたい。

 そんなことを思いながら、ダラダラ過ごしているうちに、
 なんとなく10年たってしまった。

  -------○-------

 今、この不景気の世の中で30才を越え、
 たいしてやる気もないのに、それなりに仕事があって
 食っていけている。

 それは、本当にありがたいことなんだろうと思う。

 そう思わないといけないんだろうと思う。

 仕事がなくて困っている人もたくさんいるらしいのに。
 なんか、申し訳ない気もする。

 ただ、仕事がなくて困っているって言っても、
 本当に食うに困っている人は、そんなにいないはずだ。

 収入が全くなくても、なんとなく生きていけたりするのが、
 今の日本だと思う。

 その証拠に、うちの近所の公園では、
 無職でホームレスのおっちゃんが、
 毎日、飼い犬にエサをあげている。

 それが、現実なのだ。

 「食うために働く」という言葉は、もう嘘になった。

 本当は、さほど働かなくても、
 食っていくくらいのことは出来る。

 そんな時代が、いつまで続くのか知らないけど。

 とにかく、食うためだけなら、そんなに働かなくてもいいのだ。

 だとしたら、僕は、何のために働いているんだろう?
 

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社会のせいにしてみたい

 道を歩いていて人とぶつかった時、
 反射的に謝ってしまうクセがある。

 ぶつかった瞬間、
 まだどちらが悪いか分からないのに、
 気付いたら謝っている。

 謝った後、歩きながら、
 ぶつかった時の状況を思い出してみるに、
 自分に全く否がないことに気付いて、
 だんだんムカついてきたりする。

 なんで僕が謝らないといけないんだって。

 僕とは逆に、ぶつかった瞬間に怒り出す人もいるようだ。

 「自分のほうに非があるかもしれない」
 という可能性が、少しも頭に浮かばない人。

 知り合いにも、そんな人、何人かいるけど、
 そういう人って、たいてい元気だ。
 エネルギッシュだ。
 
 四六時中、まわりに怒りやグチをふりまきながら
 走り回っている。

 見ていて、うらやましい。
 
 そんな風に生きてみたいと思う。

 思いきり怒ったりグチったりできるのは、
 自分が悪いと思っていないから。

 何かうまくいかないことがあった時、
 ストレスを感じた時、
 その責任を、すぐ自分以外の何かに押し付けるのだ。

 押しつけ先はいろいろ。
 バカな上司や仕事相手、冷たい恋人、
 手の掛かる子供、実家の貧しさ、
 自分をブサイクに生んだ親と、ブサイクを差別する社会、
 すぐ調子が悪くなるパソコン、スギ花粉、
 便秘に、不景気などなど。

 考えて見れば、誰の人生にも、
 そういう小さな障害は無数にあるのだ。

 うまくいかない時、その責任を押し付けられる、
 ストレスのゴミ箱になってくれるものは無数にある。

 こころを病んでしまう人たちは、そういうモノを
 ちゃんと有効利用していないんじゃないかと思う。

 何でもいい。何かのせいにしてしまえばいいのだ。

 そうすることで元気になれる。

  -------○-------

 例えば、パソコンのトラブルでデータが消えてしまったとき、
 間違っても、自分を責めたりしてはいけない。

 悪いのはデータを消してしまったパソコンなのだ。
 そんなパソコンを売りつけた電気屋なのだ。
 作ったメーカーにも、もちろん責任がある。

 自分が、データをこまめに保存しておけば
 良かったのかも知れない。
 面倒くさがりな性格にも問題があるかもしれない。

 でも、それは、そんな性格に育てた、親が悪いのだ。

 「自分のせいだ」と思う心には、自分に対する過信がある。

 「データをこまめに保存しておけば…」という反省の裏には、
 「自分にはそれが出来るはずだ」という思い込みがある。

 でも本当は、そんなこと出来ないのだ。
 無理なのだ。

 そんなことを几帳面にやりこなす能力なんて、
 元から持っていないのだ。

 だから、何度も同じようなことを繰り返すのだ。

 いさぎよく、あきらめよう。
 あきらめて、他人のせいにしよう。

 人は、ひとりで生きているんじゃない。

 いろんな人に、迷惑をかけられながら生きているんだから。

  -------○-------

 働いている人なら、「仕事のせい」にするのもいい。

 「仕事」というのは、なかなか便利で魅力的な言葉だ。

 デートの時間に遅れても、「ちょっと仕事で…」と言えば、
 なんとなく許してもらえたりする。

 自分の倫理に反するような仕事を頼まれた時にも、
 「仕事だからやってくれ」と言われると、
 なんとなく納得してしまう。

 何をどう納得したのか、自分でもよく分からない。

 「仕事だ」と言われると、反射的に
 「じゃあしょうがない」と思ってしまうのだ。

 時々、セールスマンから、
 ビックリするくらい無礼な電話がかかってくる。

 こっちが迷惑がっているのを完全に無視して、
 どんどん話を進めてくるのだ。

 優しく対応していたら、いつまでたっても終わらない。

 険悪な感じになるのを覚悟して切らないと、
 どこまでも図に乗ってくる。

 なんて嫌な奴なんだろうと思う。

 ああいう人も、きっと、「これも仕事だ」と、
 割り切ってやっているんだろう。

 自分の無礼さや性格の悪さを
 「仕事」のせいにしているのだ。

 僕には、とてもマネできないなと思うけど、
 どうなんだろう?

 追い詰められたら、僕もやるんだろうか?

 どうしても、
 それで金を稼がないといけないような状況になったら。

 例えば、今すぐ子供が出来て、
 その子とその母親を養わないといけなくなって、
 でも、なかなか仕事がなくて、
 やっと見つけたのが電話セールスの仕事で、
 でも、全然うまくいかなくて、
 もう無礼だのなんだのキレイごと言っていられない…
 なんてことになったら。

 「家族のために…」と思えば、
 何でもやってしまえるのかもしれない。
 
 「自分のためじゃない。家族のためにやってるんだ」
 と思えば。

  -------○-------

 「自分のために」と思うより、「他人のために」と思った方が、
 よりエネルギッシュに、思い切った行動が出来る。

 典型的なのが、宗教の熱心な信者たちだ。

 布教活動にまい進する信者たちの目には、迷いがない。

 「みんなのために頑張っている」と信じ切っているから、
 やたらにエネルギッシュで、たまに迷惑だ。

 しつこく勧誘してきたり、サリンをばら撒いたりする。

 戦前は、ほとんどの日本人が、「お国教」の信者だった。

 熱心な人もそうでない人もいたんだろうけど、
 みんな何かしら、「お国のため」という意識を持って
 生きていたんだと思う。

 親のため、上官のため、ひいては天皇陛下のため。

 「お国のために頑張る」なんて言うと、
 何か重苦しいイメージがあるけど、
 きっと、それはそれで楽だったんだろう。

 みんな「お国のため」に元気に働き、元気に殺し、
 元気に戦死していった。

 そして、戦争が終わったら、特に反省もせず、
 元気に再出発していったのだ。

 戦後になると「会社のため」という言葉が出てくる。

 「とりあえず生きていくために金がいるから…」
 なんて思いながら働いていてもつまらない。

 家族のため、会社のため、ひいては日本経済のために
 と思って働けば、単なる金もうけも、
 何か崇高な任務のように思えてくる。

 ちょっと偉くなったような気になる。

 「革命のため」という言葉も一時流行った。

 なんでも資本主義のせいにして、
 警察とやりあったり、仲間同士で殺しあったり。

 今思えばバカバカしいけど、
 当時の若者は、みんな真剣だったんだろう。

 真剣に、エネルギッシュに生きていたんだと思う。

 面白かっただろうな。

 僕も、警官に石投げてみたい。

 「お国のため」も「会社のため」も「革命のため」も、
 みんな、その背景には貧困があった。

 世の中の不幸は、全部、貧乏のせいだと思われていたのだ。

 生活さえ豊かになれば、きっと幸せになれると思われていた。

 だから、みんな、それに向かってガムシャラに頑張れたのだ。

 そんな時代に生まれたかったと思う。
 

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ノイローゼと呼ばれたい


 自分に合う「こころの病名」を欲しがっている人は、
意外に多いみたいだ。

 ニュースを見ていると、「なんとか障害」とか、
 「なんとか症候群」とか、新しい病名が次々に登場してくる。

 その多くは、カウンセリング産業の盛んなアメリカから、
 輸入されてきたものらしい。
 病人の新規開拓だ。

 新しい病名が生まれるたびに、病気という言葉の範囲が
 少しずつ広がっていく。
 病人が増えて行く。

 そのうち、みんなが病人だ。

 驚いたのが「人格障害」という病名。
 境界性人格障害、反社会性人格障害、自己愛性人格障害、
 演技性人格障害、妄想性人格障害…
 いろいろ分類されているようだけど、要するに、
 人格に問題があるため、極端に悩んだり、他人を困らせたり
 してしまう人のことらしい。

 例えば「自己愛性人格障害」の人とは、
 実績もないのに認められたがり、特別扱いされたがり、
 自分の目的のために他人を利用し、傲慢な態度をとり、
 他人の気持ちを理解しない。
 そんな人のことらしい。

 いろんな人格障害の診断基準を見ていたら、
 いくつも自分に当てはまった。

 そうか。
 僕は、多重人格障害者だったのか。

 しかし、こういうのって「病気」と呼ぶべきものなんだろうか?
 医者が治療すべきものなんだろうか?

 以前、テレビでストーカーの特集を見ていた時、
 「ストーカーになる人には、人格障害があることが多いんです」
 とか何とか解説をしている精神科医がいたけど、
 「お前の人格こそ、障害があるんじゃないの?」
 と言いたくなるような人だった。

 でも、まあ、そういう病名を付けてもらって、
 すんなり納得して治療に通っている人もたくさんいる訳だから、
 必要な人にとっては必要な病名なんだろう。

 「人格障害」と診断された人と話したことがあるけど、
 とにかく病名が付いて、ホッとした様子だった。

 「これで、やっと一人前の病人になれた!」
 そんな感じだった。

  -------○-------

 理由をちゃんと説明できないけど、なぜだかうまく生きられない。
 そんな人にとって、ノイローゼや精神病というのは、
 とても貴重な言い訳になる。

 避難所になる。

 人付き合いが出来なくても、仕事が続かなくても、
 仕方ないのだ。
 病気なんだから。

 昔、元うつ病患者の親父に説教されたことがある。
 「お前、もっとしっかりしろよ。病気なら仕方ないけど」って。

 そうなのだ。病気なら仕方ないのだ。

 「仕方ない」
 誰かにそう言って欲しい時がある。

 病院ではないけど、一度だけ、カウンセリングを受けたことがある。

 近所の精神保健施設で、リラクゼーションマシンを体験できる
 イベントがあって、参加したら、カウンセリングがついてきたのだ。

 カウンセラーは、優しそうな若い女の人だった。

 「仕事は何をされてるんですか?」とか、
 「1人暮しですか?」とか、いろいろ聞かれて、
 答えているうちに、だんだん恥ずかしくなってきた。

 わざわざカウンセラーに話すほどのことなんて何もないのに、
 別にそれほど悩んでないのに、何か深刻な悩みを聞くような顔で、
 一生懸命に聞いてくれたから。

 「最近アパートを引っ越したんです」とか、
 「新しい仕事を探してるんです」とか言うたびに、
 「ああ、それは大変ですね!」なんて、大げさに心配された。

 一通りの質問を終えた後、
 「今、かなりストレスのたまりやすい状態ですから、
  あまりムリをしないようにしてくださいね」
 と言われた。

 ちょっと泣きそうになった。

 相手はプロのカウンセラーだから、仕事だから、
 そんな言い方をするんだと分かっているのに、
 つい癒されてしまった。

  -------○-------

 精神科で病名を付けてもらい、「病気だから仕方がない」
 ってことにすれば、ちょっとは気が楽になるだろうと思う。

 でも、その安心は、そう長くは続かない。
 だって、「病気」は治すべきものだから。

 いつまでも病気のせいにはしていられない。
 「病気」という言い訳の有効期限は、意外に短いのだ。

 「病気」から抜け出すには、もっと有効期限の長い、
 良質の言い訳を見つけないといけない。

 子供の頃、よく「言い訳をするな!」と叱られた。

 僕は、すごく真面目な子供だったから
 「言い訳はしちゃいけないものだ」と思い込んでいた。

 でも、冷静にまわりの大人を見渡してみれば、
 みんな何かしら言い訳をしながら、
 責任逃れをしながら生きているのが分かる。

 いつも言い訳ばかりしているのも見苦しいけど、
 言い訳があまりヘタクソなのもダメだ。

 社会人失格だ。

 うまくいかないことがあった時、自己嫌悪に陥りそうな時、
 上手に責任逃れが出来るようになれば、
 こころの病気は、余りこじれないと思う。
 

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精神病はずるい


 初めて付き合った女の子は、精神病院に通っていた。

 そのことは、付き合う前から知っていた。
知っていたからこそ、付き合ったんだと思う。

 「ハンディを背負った彼女」に、惹かれたんだと思う。
 「ハンディを背負った彼女と付き合っている自分」に
 酔っていたんだと思う。

 その頃、僕は、かなり落ち込んでいた。
 うまくいかないことばかりで、自己嫌悪に陥っていた。
 自分の「生きる意味」が分からなくなっていた。

 そんな時、彼女は、僕の前に現れて、ダメ人間の僕を、
 無邪気に信じて頼ってくれた。
 母親の腕の中で眠る赤ん坊のように、
 全体重を僕にあずけてくれた。

 この人のために生きようと思った。
 彼女は僕の、新たな「生きる意味」になった。

 そして数ヶ月後、アッサリ別れた。

 付き合い始めた頃、彼女は、日に日に元気になっていった。
 僕は嬉しくて、もっと元気になって欲しいと思った。

 「僕のチカラで、彼女の病気を治してあげたい」
 そんな気になっていった。

 女の子と付き合うこと自体が初めてで、
 とにかく一生懸命だった。
 ただ、目の前の彼女が、安らぐように、楽しめるように、
 走り回っていた。

 それまでに感じたことのない充実感があった。

 でも、そう簡単に、病気が治ったりはしなかった。
 そんなにうまく行くわけがなかった。

 彼女の調子は、良くなったり悪くなったり。
 その波が、いつまでも続くような気がした。

 楽しいデートの後、家に帰った彼女は、
 「死にたい」と泣きながら電話をかけてきた。
 ちょっとケンカをすると、急に調子が悪くなって、
 すぐに倒れてしまった。

 「自分のチカラで彼女を元気にしたい」という思いが、
 「自分のせいで、彼女の調子が悪くなるのが怖い」
 っていう思いに変わっていった。

 彼女の顔色ばかり見て、自分の気持ちは後回しにするように
 なっていった。
 どうやって接したらいいか分からなくなって、
 心理学の本を読んでみたりした。

 いつのまにか、彼女を支える
 スタッフの1人のようになっていた。

 僕が、何か文句を言かけると、すぐ、
 「私、病気だから…」と言われた。
 そう言われると、何も言い返せなかった。

 でも、付き合いを続けて行こうと思うなら、
 もっとちゃんと言い返すべきだったと思う。
 彼女が傷ついても、言い返すべきだった。

 恋人は、カウンセラーじゃないんだから、
 相手を傷つけてもいいのだ。

 彼女の苦しさが、僕には理解できなかった。
 家は金持ちだし、美人で、頭が良くて、
 両親は優しいし、親身になって話を聞いてくれる友達もいる。

 何より、恋人である僕が、
 こんなに一生懸命がんばってるのに、
 いつまでも不幸そうな顔をしているのが許せなかった。

 一度、「いろいろ恵まれてるのに、ぜいたくなんじゃないか?」
 と意見したことがある。

 本人は黙って聞いていたんだけど、
 それを別の友人に相談したらしくて、その人から、
 「苦しんでる人に、そんな偉そうに説教するなんて
  ヒドイじゃないか」
 と、えらく怒られた。

 もう、何も言えないなと思った。

 なんか、ドッと疲れた。

  -------○-------

 精神病患者の悩みを長く聞いていると、
 だんだん腹が立ってくる。
 なんでこんな相談を聞いてあげないといけないんだろう
 って思えてくる。

 気持ちに余裕のある時ならいい。
 人の相談を聞いてあげて、感謝されたりするのは、
 気分のいいもんだ。

 でも、一生懸命に答えたアドバイスを
 受け入れてもらえなかったり、
 「人はなぜ生きていかないといけないの?」とか、
 答えようのない質問を繰り返されたりすると、
 イライラしてくる。

 「死にたかったら死んだらいいやん」って言いたくなる。

 病人の悩みって、どこか優雅な感じがするから嫌だ。

 ひとが、今月の電話代どうやって払おう?なんて、
 しょうもないことを悩んでる時に、
 「人生の意味」とかなんとか上等な悩みを聞かされたくない。

 悩みを聞いてあげてる自分より、悩んでいる相手の方が
 高級な人間のように思えてくる。

 見下してたつもりが、逆に見下されてるような気がして、
 不安になってくる。

 だいたい、僕に人生の意味なんて聞いて、
 ちゃんとした答えが返ってくると思ってるんだろうか?
 答えられないのを分かってて聞いているとしか思えない。

 悩みを相談する病人の顔には、苦しみを味わった者のプライド
 と言うか、自信というか、そういったものが見え隠れする。

 元気な、脳天気な奴らには分からないことが、
 自分には分かると思っているのだ。
 病気が長引いている人ほど、そういう傾向が強いように思う。

 「病気が治る」という未来が見えないなら、
 せめて今の自分を肯定したいと思うんだろう。
 その気持ちは分かる気がする。

 でも、分かりたくない。
 一緒に悩みたくない。

 辛いとか、苦しいとか、病気だとか、
 堂々と言える人がうらやましい。

 僕だって悩む時くらいある。
 今ちょっと、ノイローゼ気味なんじゃないかな?
 なんて思うこともある。

 でも、それをひとに話すことは、ためらってしまう。

 「ふん。そんなことぐらいで」と笑われるような気がする。
 幸せそうな顔をしていないと、叱られるような気がする。

 誰にでも、辛いこと苦しいことがあるんだと思う。
 でも、それがどのくらい辛さなのか、他人には分からない。

 自分が辛いとき、疲れているとき、
 なんで自分は、こんなにダメなんだろうと思うとき、
 自分と病人の間に、どれほどの違いがあるんだろうと思う。

 「病気だから」許されている人のことをズルイと思う。

  -------○-------

 僕は、ものごとを続けて行くというのが苦手だ。
 いつも、ちょっとしたミスでつまずいてしまう。
 ミスの後始末が出来ないのだ。

 遅刻したとか、何かちょっとした約束を忘れていたとか、
 誰でもやってしまうようなミスが、僕にとっては致命傷になる。

 キチンと謝ってフォローすれば済むんだって、
 頭では分かってるのに、それがちゃんとできないのだ。

 バイトなんて、寝坊した日からそのまま行かず、
 連絡もせずに辞めてしまったこともある。 

 大学を辞めて、やる気マンマンで始めた仕事も、
 そう長くは続かなかった。

 あまりにカッコ悪い辞めっぷりだったから、
 そのことを誰にも話せなかった。
 家族にも彼女にも言えなくて、
 しばらく仕事に通っているフリをしながら、
 こそこそバイトをしていた。

 「これからどうするつもり?」って聞かれるのが怖かった。

 でも、そういつまでも隠しはいられないし、
 どうしよう、どうしよう、何て言い訳しようって考えて
 思いついたのが、「司法試験を目指す」というものだった。

 「仕事を辞めて法律家を目指す」。
 これならカッコ悪くない。
 カッコいい。
 ひとに話しても、「へぇ、すごいね」なんて言われた。

 目指しただけで、落ちこぼれから、エリート候補に
 早変わりできた。
 難しい試験だから、すぐに結果を出さなくてもいい。

 なんだかホッとした。
 ホッとしたついでに、ホントに法律の勉強をしてみたりもした。
 すぐ止めたけど。

 状況が苦しくなると、普通はそれに合わせて
 目標を下げていくものなんだろうけど、
 僕は、それを補うかのように、言い訳のように、
 目標を逆にどんどん大きくしてしまう。

 一発逆転を狙って、よけいに自分を追い詰めてしまう。

 ギャンブルの借金をギャンブルで返そうとするようなものだ。

 自分でもダメだなと思う。
 こんなことを続けてたらいけないと思う。

 でも改められない。

 なんでこんなダメな人間になってしまったんだろう。
 子供の頃は優等生だったのに。

 おかしい。
 これは僕じゃない。
 僕がこんなダメな人間のはずはない。

 もしかしたら、これも一種の病気なんじゃないかなと思う。

 なにか、僕にちょうどいい、手頃な病名ってないだろうか?
 

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不幸自慢をしてみたい

 自分の不幸を自慢げに話す人がいる。

 本人は自慢してるつもりじゃないんだろうけど、
 僕にはそう見える。

 聞いているうちに、だんだんイライラしてくる。

 悔しくなってくる。

 無理にでも、何か反論したくなる。

 「堂々と人に語れるような不幸で、まだ良かったね」
 とか言ってみたくなる。

 僕には、他人に話せるような不幸話がない。

 辛かった話なら、いくつかある。

 でも、同情してもらえるような話じゃない。

 どれも自業自得だから。

  -------○-------

 大学時代、2度目の留年が決まった時も辛かった。

 絶対に落したらいけないドイツ語の試験に、
 僕は時計を忘れて行った。

 もう留年したくないと思って勉強していったから、
 問題には答えられたんだけど、ゆっくりやり過ぎて、
 途中で時間切れになってしまった。

 あ~、時計さえ持って来ておけば…と後悔した。

 それだけの問題でもないけど。

 それでも、ギリギリ通ってるんじゃないかと思ってたら、
 アッサリ落ちてしまった。

 試験結果の張り紙を見た後、
 その場にしゃがみこんで、しばらく動けなくなった。

 こんなことで、また1年、金と時間をムダにするのか…

 僕は、なんてダメな人間なんだろうと思って、
 ビックリした。

 何年かしてから、そのことを彼女に話したら、
 「それはアンタが悪いよ」と言われた。

 「うん…僕が悪いんやけど…でも、あの時は辛かったよ」
 「でも、それは自分の責任やんか。しょうがないよ」

 彼女の言ってることは正しいと思う。

 でも、あんまり正しいツッコミを入れないで欲しい。

 バカにしてもいいから、もっと僕を甘やかして欲しい。
  
  -------○-------

 生きていれば、みんなそれぞれ、辛いことがあるけど、
 傷ついていいことと、傷ついちゃいけないことがある。

 例えば「私の大切な花子ちゃんが死んでしまった!」と
 嘆いている人がいたとする。

 その花子ちゃんが、その人の娘だったら、嘆いて当然だ。
 みんな同情してくれるだろう。

 花子ちゃんが、もし、ペットの犬だったとしても、
 それなりに同情はしてもらえるだろう。

 でも、犬ごときで、いつまでも嘆いているわけにはいかない。

 それが犬じゃなくて、熱帯魚だったら、
 共感してくれる人は、ずっと少なくなる。

 もし、それが生き物ですらなくて、人形だったら…

 大事にしていた人形の「花子ちゃん」が、
 壊れてしまっただけだったら…

 しかも、その悲しみに涙しているのが、幼い少女じゃなくて、
 30過ぎた無職のオッサンだったら…

 そのオッサンが、ブサイクな上に太っていて、
 不自然に伸びた髪が、脂でギトギトになっていたら… 

 ただ気持ち悪いだけだ。

 そんな奴に、いちいち同情なんてしていられない。

 「もっとちゃんと生きろ!」と言いたくなる。

  -------○-------

 テレビで、理不尽な事件の被害者が話しているのを見ると、
 いつも、しんどくなる。

 なぜか、自分が加害者側の人間として、
 怒られているような気分になってしまう。

 大きな事件だと、被害者へのインタビューが
 何回も行われる時がある。

 回数を重ねるにつれ、だんだん、
 インタビューに慣れていくのが分かる。

 話す声に力が出てきて、辛いはずなのに、
 なぜか表情が生き生きしてくる。

 話す内容も整理され、個人的な怒りの訴えが、
 社会批判にまで展開されていったりする。

 被害者の声が社会に受け入れられ、
 大きくなって行くのに比例して、
 僕の中にあった同情の気持ちは、どんどん薄れて行く。

 被害者の顔が、得意げに見えてくる。

 その言葉が正しければ正しいほど、
 聞いていられなくなる。

 人前で堂々と怒れる人が、うらやましい。

 怒ってる人は元気だ。
 エネルギッシュだ。

  -------○-------

 人生につまづいた時、うまく行かないことがある時には、
 何か、それなりの理由があって欲しい。

 自業自得以外の理由があって欲しい。

 他人のせいに出来るようなものがあればベストだけど、
 なければ「運勢」とかでもいい。

 占いはあまり好きじゃないけど、
 はまる人の気持ちは分かる気がする。

 自分で背負いたくないものを、
 占い師が背負ってくれるのだ。

 うまくいかない理由を、無理やり見つけて教えてくれる。

 星がどうだとか、方角がどうだとか、字画がどうだとか、
 非科学的な、バカみたいな理屈で金をとる替わりに、
 その金額分の責任を負ってくれるのだ。

 精神科医やカウンセラーは、そこまでしてくれない。

 彼らは、あくまでも「まともな人たち」だから、
 どうしたって、相談している方がバカになってしまう。

 その点、占い師なんて、いくら偉そうにしたって、
 しょせんはアウトサイダーだから、
 相談する方もされる方も、お互いバカで、気が楽だ。
 
 ただ難点は、せっかく占い師が教えてくれた「理由」も、
 それを信じない人には、全く通用しないってことだ。

 「運勢が悪いので、会社休みます」なんて言い出したら、
 自分まで、占い師レベルのアウトサイダーになってしまう。

 ちゃんと生きられない、他人のせいにも出来ない、
 アウトサイダーにはなりたくない…となったら、
 あとは病院に行くしかない。

 精神科医は、バカな理屈を言うかわりに、
 薬と病名を与えてくれる。

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キチガイ扱いされたくない

 ノイローゼになったことがある。

 でも、怖くて、病院には行かなかった。

 精神科になんか行ったら、キチガイになってしまうからだ。

 大学生の頃、いろいろあって、学校へ行かないようになり、
 ひとり、アパートに閉じこもって過した時期があった。

 4畳半の部屋には、テレビも電話もなかった。
 パソコンなんて、もちろんなかった。

 静かな部屋の中で、ただ本を読んで過ごしていた。
 読みながら眠って、目が覚めると、また続きを読んだ。

 本に飽きると、自転車に乗って、
 あてもなく、ダラダラそこら中を走った。

 あまりバイトもしなかったから、いつも貧乏だった。

 本当にピンチになったら、全財産を持って、
 新装開店のパチンコ屋へ勝負をしに行った。

 これで負けたら、ちゃんとバイトをしようと思って。

 幸か不幸か、だいたい、いつも勝ってしまったから、
 なかなか更正できなかった。

 部屋には、金目の物なんて何もなかったから、
 外へ出るときも、カギなんてかけなかった。

 でも、自分が部屋にいる時には、必ず中からカギをかけた。

 カギをかけないと、全然くつろげなかった。

 外の世界との接点は、時々、訪ねて来てくれる友達だけ。

 みんな、連絡なしに、突然やってきた。

 電話がなかったから。

 わざわざ会いに来てくれる友達がいることは、
 すごく嬉しかったし、ありがたかった。

 それなのに、時々、居留守を使ってしまうことがあった。

 ボロいアパートの廊下を歩いてくる足音が聞こえる。

 自分の部屋の前で止まる。ドキッとする。

 僕を呼ぶ声が聞こえて、それが友達だと分かる。

 「ああ、来てくれたんだ」と思う。

 ドアを開けて、招き入れようと思うのに、
 体が動かない。声も出ない。

 留守だと思った友達が、帰っていく足音を聞きながら、
 「ああ…行ってしまった…」と、ガッカリした。

 なぜ居留守を使うのか、自分でも、よく分からなかった。

 「こういうのを、ノイローゼって言うのかな?」と思い、
 ノイローゼや精神病の本を買ってきて読んだ。

 病院に行こうかと、何度も思ったけど、
 結局、1度も行けなかった。

 だから、「ノイローゼ」というのは、自己診断だ。

 ちゃんと診察を受けていたら、
 何か別の病名をもらっていたかも知れない。

 でも、あまりややこしい病名を付けられるのは嫌だった。

 キチガイには、なりたくなかった。

 僕はキチガイじゃないと思いたかった。

 他人から、キチガイだと思われるのも怖かった。

  -------○-------

 自分がノイローゼになる前から、心の病気には関心があった。

 父親はうつ病だったし、精神科に通う友達もいたから。

 だから、精神病というものに対する、
 世間の風当たりの強さというのは、なんとなく感じていた。

 差別表現に敏感なマスコミでも、
 精神病に対する規制は、すごく甘いと思う。
 
 精神障害者は、反差別運動なんてものに馴染めない人が多くて、
 運動が弱いから、なめられているのだ。

 殺人や傷害事件の報道を見ていると、
 最後に、こんな一言が付け加えられていることがある。

 「容疑者は以前、精神病院に通っていた」

 そんな情報が、簡単に調べられ、
 報道されてしまうこと自体も怖いけど、
 そもそも、この一言を付け加える意味は何だろう?

 「容疑者は以前、精神病院に通っていた」

 だから、どうなんだ…ということは何も言われていないけど、
 これを聞いた人は、「ああ…そういうことか」と納得する。

 「そんな犯行をしてしまったのは、キチガイだからか…」と。

 キチガイの犯行に、動機はいらないのだ。

 気になるのが、さりげなく使われている「以前」という言葉。

 容疑者は「以前」精紳病院に通っていたのだ。

 それが、何年前のことなのか、病名は何だったのか、
 その時の病気は治ったのか、今現在の精紳状態はどうなのか…
 
 そういったことは、何も分からないけど、
 別に分からなくてもいいのだ。
 
 「以前」精神病院に通っていたという事実だけで充分だから。

 それで、前科一犯。

 「何をしでかしても不思議のないキチガイ」になってしまう。

  -------○-------

 刑法39条には、「心神喪失者の行為は、罰しない」とある。

 残酷な事件が起こるたびに、この法律が取り上げられ、
 精神病者は「何をしても許される危険な存在」として記憶される。

 なんで、そんな危険な奴らを、自由にさせておくんだろう?

 キチガイなんて、みんな病院に閉じ込めておけばいいのに…と思う。

 精神障害者を差別する人には、加害者としての自覚なんてない。

 逆に、「自分たち」こそ被害者だと思っているのだ。

 精神科に通院歴のある人が、残酷な事件を起こすことはある。

 でも、通院歴のない人だって、残酷な事件を起こすことはある。

 精神科に通う人たちを「他人に危害を与える可能性が高い奴ら」
 と考えるのは、偏見だ。

 偏見だけど、なんとなく、リアリティがある。

 結局は、これも、数の問題なのかも知れない。

 精神科に通う人は、まだ、少数だから、
 よく分からないから、怖がられてしまうのだ。

 だから、偏見がなくなるためには、
 精神科に通う人が、もっともっと増えた方がいい。

 みんなノイローゼになればいいんだ。

 特に、警察やマスコミ関係者なんて、家族も含めて、
 みんな、うつ病か何かになってしまえばいいんだ。

 そうすれば、報道の仕方も変わるだろう。

 みんな、もっと、精神科に行けばいいのに…

 「自分は正常だ」と思い込んでる人だって、
 診察を受ければ、何かしら、病名を付けてもらえるだろうし、
 病名が付けば、合法ドラッグを格安で買えるんだから。

 みんな、もっと気軽に精神科へ行くようにして欲しい。

 そうすれば、僕も、安心して通うことができる。

  -------○-------

 ただ、精神病に対する偏見という問題を抜きにしても、
 やっぱり、精神科に行くのは怖い。

 診察を受けるのが怖いのだ。

 大学の頃から、今まで、精神的に落ちこんだ時期は
 何回かあった。

 落ちこみ方は、その時々によって違うけど、
 毎回、共通しているのは、人と話せなくなるということだ。

 特に、自分自身のことについて、質問されるのが怖い。

 初対面の精神科医に、一体、何を聞かれるんだろう?
 と考えただけで、行きたくなくなる。

 「どうしました?」と聞かれたって、
 なんて答えたらいいのか、分からないんだから。
 

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障害者は働かない

 障害者は、ムダ遣いをしてはいけない。

 働きもしないで生きているからだ。

 他人の金で、生きさせてもらっているからだ。

 僕が昔、介護に行っていた障害者は、
 毎晩酒を飲み、タバコを吸い、
 時にはパチンコにも行く人だった。

 重度障害者がパチンコなんかやってると、
 他の客に文句を言われることがよくあるらしい。

 国の金でパチンコするな!…という訳だ。

 こいつがパチンコするために、俺は税金を払っているのか
 と思うと、腹が立ってくるんだろう。

 その気持ちは、分かる気がする。

 障害者年金を、「国の金」と言って良いのかどうか
 知らないけど、まあ、似たようなもんかな。

 ただ、当たり前の事だけど、
 その障害者が、パチンコに使っている金は、
 元々パチンコ代として支給されているわけじゃない。
  
 生活費を切り詰めて、パチンコ代に当てているんだから、
 他人から、とやかく言われる筋合いはないはずだ。

 それでも、例えば、自分の生活が苦しい時、
 パチンコどころか、今月の家賃すら払えそうにない時に、
 くわえタバコでパチンコしている障害者を見かけたら、
 なんか、腑に落ちないものを感じてしまう。

 ちょっと、それはないんじゃないの?と思うってしまう。

 借金を返すために、イチかバチかで競馬に行き、
 夢やぶれて、倒れこんでいる自分の隣で、
 障害者が当たり馬券を持って大喜びしていたら…
 コノヤロ~!と思う。

ホーキング青山という、車椅子の芸人さんのネタに、
 エロビデオを借りに行くという話がある。
 
 障害者年金でエロビデオ鑑賞…不謹慎だ。

 普通の映画なら、誰も文句を言わないと思うけど、
 エロビデオだと、ちょっと不謹慎な感じがする。 

 風俗はどうだろう?
 年金コツコツ貯めて、年に1~2回のソープランド…
 そのくらいなら、まぁ許せる気がする。

 彼女とか、出来にくそうだし。

  -------○-------

 重度の身体障害者は、その生活の全てに渡って、
 介護が必要になる。

 移動や食事、風呂、トイレといったような、
 どうしても必要なものだけでなく、
 酒を飲むにも、タバコを吸うにも、パチンコするにも、
 オネ~ちゃんをナンパしに行くにも、介護が必要だ。

 酒やタバコの介護をする時、
 普通の食事介護の時には感じない、
 面倒くささを感じる時があった。

 水割りを作って飲ませた後、
 タバコをくわえさせて、火をつける。
 「なんか、ホストみたいだな」と思う。

 酔って力が抜けると、後でベッドに運んだりする時、
 体が重くてしょうがない。

 酒をこぼしたり、イロイロ失敗もする。
 こぼした酒は拭かないといけない。

 面倒くさいなぁと思う。

 その頃はまだ、のんきな学生だったから良かった。

 今だったら、もっとイライラすると思う。

 自分の生活が、どうなっていくのか分からないのに、
 来月、ちゃんと仕事があるかどうかも分からないのに、
 酔った障害者の介護をするのは辛いだろう。

 少額とはいえ、定期的に決まった収入が補償されている、
 障害者がうらやましい。

 生活していけるだけの金があれば、
 仕事なんかしたくない。

  -------○-------

 障害者は働かなくても許される。

 働けないと決めつけられるかわりに、
 働かなくても許してもらえるのだ。

 僕は、あまり働きたくないから、
 働かなくてもいい人がうらやましい。

 働けることを感謝しろって言われても、
 別に働けなくてもいいもん。

 テレビ見てたら幸せだもん。

 仕事補償を求める障害者たちは、
 なんで、そんなに仕事がしたいんだろう?

 仕事なんて、楽しいこともあるけど、
 ほとんどの時間は、辛くて退屈なのに。

 仕事しなくても生きていけるんだから、
 のほほんと暮していけばいいじゃないかと思う。

 金儲け以外にも、社会参加の方法は、
 いくらだってある。

 ボランティアをしたいという障害者を
 誰も止めはしないだろう。

  -------○-------

 確かに、自分の稼ぎがない人間は、肩身が狭い。

 自分で働いて、稼げるようになって初めて、
 「社会人」と呼ばれるのだ。

 自分で稼げないような奴は、「社会人」じゃない。

 「社会人」が「社会人」のために作っている社会の中で、
 「社会人」になれない人達の権利は、
 当たり前のように軽視される。

 女、子供、老人、障害者、無職のひきこもり…

 そういう社会の中で、自分も「社会人」の側になりたい
 という気持ちは分かる。

 本当は仕事ができるのに、なんとなく、イメージで
 排除されてしまっている障害者も多いだろう。

 ただ、新入社員を選ぶときに、本当の能力なん分かる訳がない。
 障害者に限らず、みんな、なんとなくのイメージで
 採用・不採用を決められてしまうのだ。

 だから、イメージの悪い障害者の雇用を保証するには、
 特別な措置が必要になる。

 障害者を積極的に雇う企業は、国から金がもらえるとか、
 逆に雇わない企業には、ペナルティがあるとか。 
 
 そうやって強引にでも障害者の「社会人」を増やして行けば、
 障害者に対するイメージも変わって行くのかも知れない。

 でも、そういう制度が整ったからといって、
 全ての障害者が雇用されるわけがない。

 制度の中で、「働ける障害者」と「働けない障害者」に
 分けられていくことになるだろう。

 その時、取り残された「働けない障害者」の肩身は、
 今より広くなるんだろうか?

  -------○-------

 障害者の雇用が特別に保障されるようになれば、、
 その分、押し出されるように仕事を失う健常者も出てくる。

 仕事にあぶれた健常者は、障害者年金をもらえない。

 障害があっても、軽すぎて、障害者年金をもらえない人もいる。

 不景気になれば、軽度の障害者だって、
 なかなか仕事にありつけないのに。

 障害が軽い方が、かえって生きづらかったりすることもある。

 同じ障害者でも、精神障害者になると、
 世間の風当たりは、もっと強い。

 身体障害者への生活補償に共感する人の中でも、
 精神障害者への補償には、抵抗を感じる人は多いと思う。

 「怠けものを、のさばらせているだけ」のように見えるから。

 精神病院に通う知人は、車椅子の障害者が羨ましいと言っていた。

 ひと目で障害者だと分かるから、楽だって。

 本当に、ひと目で精神障害者だと分かって欲しければ、
 障害者手帳でも、頭に貼りつけておけば、一発なんだろうけど。
 

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障害者を閉じ込めたい

 障害者は、その存在自体が放送禁止だ。

 教育テレビや、硬派なドキュメンタリーなんかで、
 「障害者問題」をテーマにしているものには出てくるけど、
 いわゆる「普通の番組」に、障害者が出てくることはない。

 障害者が出てくると、視聴者が「ひく」からだ。

 身体障害者と並べていいものかどうか分からないけど、
 昔はよく、バラエティ番組で笑いをとっていた
 「小人さん」たちも、最近は全く見なくなった。

 中には重度障害を売りにして、プロレスをやってる人とか、
 お笑い芸人をやってる人もいるけど、
 しょせん、マイナーな、マニアックな存在でしかない。

 お茶の間には登場できないのだ。

 数十年前には、見世物小屋へ行けば、
 いろんな障害者タレントに会うことが出来た。

 でも、彼らが人権問題の対象になるようになってからは、
 障害者が、その特異なビジュアルを売りにして
 商売することが難しくなっていった。

 重度障害者同士がプロレスをしてると聞けば、
 たいていの人は、ちょっと見てみたい気持ちになると思う。

 でも、それを「アハハ」と笑いながら見ることは、
 なんとなく差別っぽい気がする。

 「差別っぽい」ものは、テレビには出せない。

 ややこしいから。

 そんな中、乙武さんは、ベストセラー本の作家という、
 ある種の「文化人」として、いろんな番組に、
 平気で、その姿をさらせるようになった。

 もちろん「文化人」というのは、あくまで建前だ。

 彼は、ゴールデンタイムに出ることを許された、
 ただひとりの、障害ビジュアル系タレントなのだ。

 前に、両脇を抱えられながらスキューバーダイビングを
 楽しんでいる乙武さんの姿を見たことがある。

 すごいインパクのある映像だった。
 
 テレビ局の人達も、本当はもっと使いたいんだろうけど、
 まだ、ちょっとビビっている。
 テレビの前の視聴者も、ちょっと戸惑っている。 

 「差別っぽく」なることを恐れている。

 もっとやればいいのに。

 コントとか、出ればいいのに。

 ハリセンで、頭どつかれればいいのに。

  -------○------- 

 学生時代、学校近くの駅の階段を降りたところで、
 ときどき、障害者団体が募金活動をしていた。

 車椅子に乗った脳性マヒの障害者が何人も並んで、
 ひざに募金箱を置いている姿は、すごい迫力だった。

 友達は「見世物みたいで、見ていられない」と言っていた。
 「あんなことやらされて、かわいそう」って言う人もいた。
 中には、横でビラを配っている介護者に文句を言う人もいた。

 僕も、見るたびに、なんとなく嫌な、辛い気持ちになった。 

 後になって、その障害者たちと話をする機会があり、
 彼らが、別にやらされていたわけじゃなく、
 自分たちの意思で、募金活動に参加していたことが分かった。

 彼らに意志があるなんて知らなかった。

 やらされているわけじゃないと分かってからも、
 障害者の募金活動を見ると、なんとなく辛くなった。

 大学で、障害者差別のことを勉強したら、よけいに辛くなった。

 募金せずに、やり過ごすのは辛い。
 募金をしても、やっぱり辛い。
  
 小銭をチャリンと入れた瞬間、
 「そんなことで済むと思ってるの?」と
 誰かに問われてるような気がする。

 障害者は、やっぱり面倒くさいなぁと思う。
 精神的にも、面倒くさい。

 昔なら、差別が当たり前の時代なら、
 そういう、精神的な面倒くささは少なかったかもしれない。

 僕は、人権教育を受けて育ったから、
 障害者を差別してはいけないと思っている。

 でも、実際には、障害者差別が解消されるために、
 何か努力をするわけでもなく、
 障害者を排除する社会システムの中で、
 健常者として、のほほ~んと暮しているのだ。

 障害者を見ると、そのことを思いだす。

 自分の良心や生き様に、疑問を投げかけられてるような気がする。

 本当は、もっとイロイロがんばらないといけないんじゃないか、
 とか思ってしまう。

 そんなこと思いたくない。
  
 のほほ~んと暮していたい。

 障害者を見たくない。

  -------○------- 

 「障害者のことなんて考えたくない」と思っているのは、
 僕だけじゃないはずなのに、
 「五体不満足」は、大ベストセラーになった。

 障害者の自伝なんかが、どうして健常者に、
 あれだけ受け入れられたのか? 

 それは、たぶん、あの本の内容から、
 「障害者のことなんて、それほど考えなくていいよ」
 というメッセージが読み取れるからだと思う。

 だって、今のままでも、充分幸せだって、
 障害者本人が言ってるんだから。

 基本的には放っておけばいいのだ。

 ただ、街で障害者を見たとき、
 「かわいそうな人だ」と決めつけさえしなければいい。
 
 その程度のことなら、すぐ簡単に出来そうな気がする。

 たいていのベストセラー本の中に共通してあるのは、
 「大きなアメと小さなムチ」だ。

 基本的な部分では、読者の現状を肯定した上で、
 簡単に実現できそうな、軽い課題を出すのがコツ。

 「五体不満足」の読んだ健常者は、それまで障害者に対して、
 なんとなく持っていた罪悪感を癒される。

 そして、精神的に、ちょっと成長したような気分にもなれる。

 2倍お得だ。

 ただ、あの本がベストセラーになったからといって、
 「障害者だから不幸」という一般的なイメージが、
 変わったわけではない。

 本を読んで感動したって言う読者の中にも、
 乙武さんのことを「不幸なのに、頑張って生きている障害者」
 っていうイメージでとらえている人は多いと思う。

 障害者が、そんなに幸せなはずがないと、
 みんな思っている。

 そして、そんなに幸せであって欲しくないとも思っている。

 仕事もしないで、みんなに支えられて生きている障害者が、
 自分より幸せな生活をしてるなんて、許せない。

 認められないのだ。 

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